歌姫・中森明菜は生まれながらにしてスターだったのでしょうか?
もちろんデビュー前から類いまれなる才能を持ち合わせていたことは間違いありません。
しかしその活躍の裏には、光り始めたばかりのまだ原石だった彼女を見つけ出し、
ときにぶつかりながら共に80年代前半を走り抜けた伝説的ディレクターの存在がありました。
今回はデビュー43周年を記念し、満を持して島田雄三さんへのインタビューが実現。
今だから語ることのできるエピソードの数々をお伺いしました!

島田雄三さん
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デビュー2年目の『禁区』でNHK紅白歌合戦初出場を果たす

~早速ですが、当時のNHKの番組出演に関して印象的だったエピソードがあればぜひお願いします
島田雄三さん(以下敬称略):
やっぱり一番はデビュー2年目、1983年暮れの紅白初出場ですね。本人にとっても夢のようなことだったでしょうから、新人たちが控えていた大部屋でワーワーキャーキャーやっていましたよ。紅白は他の番組とは違う別世界なので、アーティストにとっては最高の花道だったんじゃないかな。じつは前年に出した『少女A』がNHKさんの放送自粛ソングに認定(?)されまして。それを聞いたとき、私はひそやかに心の中で「やった! これで売れるぞ!」と確信したのを覚えています(笑)。にもかかわらず、翌年に『禁区』で紅白初出場を果たせたというのは、おかげさまでといいますか自粛ソングになったからこそ。逆にむちゃくちゃ売れて世の中が明菜で大騒ぎになってしまったので、NHKさんも「出さなければならないアーティスト」の1人として扱ってくれるようになったのでしょう。これは私の勝手な想像ですが…。
~ その頃の明菜さんはどのような様子でしたか?
島田:
彼女は喜怒哀楽を常に表に出しているかというとそうでもない。だから紅白初出場の際も、終わったあとは拍子抜けするくらいにわりとさらっと帰っちゃったような気がします。『スター誕生!』後に初めて面談したときも無口でほとんど喋りませんでした。何を聞いても「はい」しか言わないので、これまたひそかに「しまった…妙な子をつかまえちゃったかなぁ」なんて思ったものです(笑)。賞をいただいたときも、やった〜! って言って抱きついてくるかっていうと全然そうじゃない。喜怒哀楽のスイッチの入り方が独特でしたね。だから通常のツーといえばカーというようなコミュニケーションはとれず、かといって難しいわけではなく妙な魅力があって。愛想を振りまくでもないのに人を惹きつけるものがあったんでしょうね。だからこそ僕も何十年も彼女のことが好きなんだと思いますよ。
多忙を極めるなかでの修羅場と体当たりの日々

~ デビューしてすぐに明菜さんと島田さんにとって転機となる出来事があったそうですが
島田:
いわゆる『少女A』事件ですね。作ってくださった先生方には申し訳ないのですが、明菜本人は『少女A』をどうしても歌いたくなかったんです。曲もタイトルも嫌いだった。これは僕の憶測ですけれど、当時少しずつ売れ出して、週刊誌が明菜のことを色々書くようになっていました。それで本人は「そういう情報を島田さんが一生懸命集めて自分のことを曲にした」と誤解したのかもしれません。
本人としては他のアイドルのように可愛い衣装で可愛い歌を歌いたかったようです。デビュー曲も比較的地味な『スローモーション』だったのに、次の曲が『少女A』ですからね。そりゃ僕でも怒っただろうなと思います。
というわけでレコーディングは決死の覚悟で、下手すると本人が来ないんじゃないかと思うくらい緊張感がありました。でも僕もそれまでに難しいアーティストも担当していましたから、対処法はわかっていたつもりです。プイって態度の相手にはこっちもプイって口をきかない(笑)。すると、「なんだこのおじさん!?」って面食らって「せっかく来たんだからやろうよ」と言ってくる。でもそこですぐには始めず「やるのはいいけど、ちょっと頭痛いしあんまりやりたくないんだよな〜」なんて返す。するとますます「でもせっかく来たんだから」って。「じゃあとりあえずテストやってみるか」と進めるものの、さらに「やめやめ! こんなんだったらやったってしょうがない。やりたくないんだったら帰れよ」なんてダメ出しする。するとついに「わかった、やる」ってスイッチが入る。本音では僕もしびれを切らしていたんだけどね。これでダメならしょうがないって腹を括って「『スローモーション』は明菜じゃなくても売れたんだよ。でもこの歌は明菜じゃなきゃ売れないんだよ!」「もしこれが売れなかったら、俺は担当降りるから」って最後は脅しですよ。本人も泣いて鼻水垂らして「嫌だ」って。もう修羅場。事務所の社長に「まあまあ島田さん」なんて言われながら。
結局レコーディングのあと3ヶ月くらい口をきいてくれませんでしたよ。でも『少女A』が大ヒットしたことで、彼女は変わりました。やっぱりアーティストにとって支持されるというのは最高の喜びですから。その後も『1/2の神話』や『禁区』といわゆるツッパリ路線の曲をリリースしましたが、みなさんご存知の通り明菜のパフォーマンスは文句のつけようがないくらい吹っ切れてかっこよかった。
~ デビュー1年目は激動だったと思いますが、他に印象的な思い出はありますか?
島田:
明菜は激しいところがある一方で先ほども話したように響いているのか響いていないのかわからない淡々とした面もある不思議な子でした。新人時代は賞を逃し悔しい経験もしましたが、僕は最初から明菜をアイドルではなくアーティストにしようと思っていたので「賞レースはどうでもいいんだ。こんなもん悪いけど選挙だから気にしなくていいよ」と本人に言いました。松田聖子さんの話をよくしたけど「聖子さんは日本を代表するアーティストで、ずっと1位を取り続けるプレッシャーは大変なものだよ。我々はあんなすごいアーティストさんと違うからっ」て。『スローモーション』は最高位が30位。そこからのスタートなんだから、順位とか賞なんて気にするなっていつも言っていました。私も遠慮せずなんでも言っちゃうタイプなので、明菜もわりと私の言葉はすんなりと聞き入れる感じだった気がします。
アーティスト中森明菜から感じた強烈なエネルギーと繊細さ

~ 明菜さんのパフォーマンスの中で島田さんが思う名場面があれば教えてください
島田:
NHKさんの番組を筆頭に、当時はフジテレビさんの『夜のヒットスタジオ』や日テレさんの『ザ・トップテン』、TBSさんの『ザ・ベストテン』がありましたが、送り手側の熱量がすごいんですよ。僕もたまにリハーサルから行きましたけれど、すでにそれを感じるんですね。明菜を含めてアーティストたちはすごく繊細で敏感なので、その雰囲気をダイレクトに感じるんでしょうね。『1/2の神話』で「いいかげんにして〜」と歌い上げたときの明菜の指先は震えていました。それくらい本人の気迫もすごくて、スタジオのテレビ越しに観ていた僕もびっくりするものがありました。きっと視聴者の皆さんにも明菜の熱量は伝わったでしょう。こんなこと言っちゃ他のアーティストに申し訳ないけど、これだけのエネルギーを発するアーティストっていうのは僕の中では初めてでした。それだけのものを込めて歌う明菜ですから、毎回歌がどんどん良くなっていくんですよ。同じ曲なのに先週の歌と今週の歌は全然違う。そういう意味では明菜のパフォーマンスは毎回が名場面といえるでしょう。
~ 島田さんは『ミ・アモーレ』を最後に明菜さんの担当を外れますが、そこにはどんな理由があったのでしょうか
島田:
白状しちゃうけど、喧嘩になるのが嫌だったんです。明菜は自分をしっかり持っている強い子だったし、僕も仕事に関しては絶対に引かないから。どこかで「そのとき」が来てしまう可能性をいつも感じていました。デビュー前から足掛け5年、一緒にすべていい形で大ヒットを飛ばしてきたからこそ、ぶつかって決裂することだけはしたくなかった。どうすればそれを避けられるかと考えたときに、僕が引くしか道はないなと思いました。
じつは『ミ・アモーレ』の1、2作前あたりからちょっとまずいなと思い始めていたんです。当時は「明菜と喧嘩したんじゃないか」とか色々なことを言われましたよ。でも事実はそうじゃなくて、僕は明菜が大好きで絶対に別れたくなかった。だからこその決断でした。決して彼女との仕事に関して枯渇したわけでもなく、いまだに彼女とやりたい企画はあるんですよ。
彼女との出逢いの意味と僕にとっての中森明菜

~ 島田さんにとって明菜さんとの出逢いや、明菜さんの存在とはなんだったと思いますか?
島田:
僕にとって彼女との出逢いはものすごく大きい。こんなに素晴らしい出逢いはもうないだろうし、本当に巡り会えてよかったと思う。明菜を日テレの『スター誕生!』で見つけて、大手十何社がこぞってコールしたにも関わらず不思議な縁でワーナー(レコード会社)と研音(芸能事務所)に決まったのは偶然のような必然。その組み合わせがちょっと違えばその後の展開も全然違ったでしょう。
当時はどちらもまだ三流、四流の会社だったからこそ、明菜のような売り方ができたんです。もしホリプロや渡辺プロなどの一流会社だったらきっとそうはいかなかった。自由にやれる環境があったから僕も明菜も自分を通せたところがあります。そして一流や二流に勝つためにはどうしたらいいか懸命に考えました。他のアイドルのようにミニスカート履いて可愛らしくやらない、というところからスタートして、もっと音楽的に高みを目指そうと決めた。それが私のコンセプトでしたから。思いを形にしてくれた明菜は、僕にとって同志と言ってもいいかもしれません。
当時は携帯電話もなかったけれど「僕は24時間営業だからね。いつでも何かあったら電話してきて」と彼女に伝えていました。夜中の2、3時くらいに自宅の電話が鳴ることもあったので、最後にはしょうがないから枕元に電話を置いて寝ていました。仕事先のハワイで海岸に寝そべりながら、今でいう恋バナをしたこともあります。当時アイドルにとって恋愛はタブーでしたが、僕は恋愛のひとつもしないなんて気持ち悪くてしょうがないって言っていたので、他の人に話せば問題になるようなことも僕には話してくれていたのかもしれません。

~ 最後に、当時からのファンと最近ファンになった人、そして明菜さんご本人に向けてメッセージをお願いします
島田:
明菜にとってファンは原動力。彼女自身もいちファンとしていろんなアーティストのライブを観に行き勉強し続けているので、お客さんが喜んでくださる気持ちがわかるんでしょうね。『少女A』の頃には各地に親衛隊というのがいて、新幹線の移動中は通過駅で親衛隊もバトンタッチし、最後は大阪まで途切れず応援が続くような連携体制がありました。それが本人にとって大きな力になっていました。
最近聴いてくれるようになった若い人たちには、明菜が作られたものではない自分の意志でやっているアーティストだということがわかるんだと思います。それは最初から明菜のコンセプトでした。全部やらされているというのが私は大嫌いなんです。そういう要素を排除して、できるだけ本人から発するもので作っていきたいと。当たり前っちゃ当たり前なんですが、髪型やメイクや衣装をどうしろああしろなんて、周りのおじさんが言うべきじゃないってずっと思っていました。自発性を大切にしていたからこそ、本人もどんどん自信がついていったというのが明菜の歴史です。それは自作の曲でバンドを一生懸命やっているような若い人たちにも伝わるんじゃないかな。
明菜へのメッセージは「あんまり無理しない程度でいいから、できるだけ長く歌えるように」のひと言。彼女は負けん気が強いし、お客さんにいいもの見せたい、いい歌を歌いたいっていう気持ちもものすごく強いので、見えないところで一生懸命努力していると思うんです。下手すると頑張りすぎちゃう。同年代の、あるいはもう少し上の先輩たちがそうであるように、みんな声や体が思うようにいかない時期を迎えます。そういう先輩たちがどう乗り越えていくのかというのも参考にしながら、無理せずに頑張ってほしいなと思うんです。
だって僕は中森明菜という人が、やっぱりどっかで好きなんだろうから。大変なこともありましたが、ともかくいろんな思いをさせていただいた。こんな素晴らしいアーティストに出逢えて本当に幸せです。
(聞き手/ライター・花摘マリ)
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<島田雄三さんプロフィール> |
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