家康がもっとも苦手とした戦国随一の知恵者にして策士、豊臣秀吉。実際、どのような人物だったのか――。ドラマの背景にある実像に迫る。
豊臣秀吉(とよとみ・ひでよし)*木下藤吉郎 / ムロツヨシ 2023年NHK大河ドラマ「どうする家康」で、のちに家康(松本潤)最大のライバルとなる武将。貧しい出自ながら、頭の良さと人心掌握術により信長(岡田准一)のもとで戦功を重ねて出世。信長亡き後は、後継者争いで家康と対立するも和睦。天下人へと大出世をとげる。 |
「鳴かぬなら鳴かせてみせよう」
天下人となる知恵者・秀吉の実像とは!?
徳川家康の生涯を描く大河ドラマ「どうする家康」。その家康にとって天下人の先輩であり、ライバルでもあった豊臣秀吉は、「鳴かぬなら鳴かせてみせよう」というホトトギスの川柳にもあるように策士として知られます。貧しい身分から天下人へ急成長した秀吉とは、どのような人物だったのでしょうか。
信長の後継者へ
1537年の生まれとされる秀吉は、家康から見ると5歳年長ですが、若い頃の経歴はよく分かっていません。小身ながら織田信長の家臣に取り立てられ、数々の武功を挙げて頭角を現し、1573年には近江の長浜城主となります。信長から「禿ネズミ」とのあだ名で呼ばれた史料があり、ちょこまかと忙しく動き回るタイプだったようです。信長の戦いに動員されていた家康とも、いわば顔なじみの間柄でした。
しかし1582年、本能寺の変で信長が自刃すると、すぐに秀吉は京都に引き返し明智光秀を滅ぼします。翌年には、同僚だった柴田勝家を滅ぼし、秀吉は織田家を掌握していきます。
関白の大坂城
これに反発した織田信雄(信長の次男)は家康と結び、1584年の小牧・長久手の戦いで秀吉に敵対します。長引く戦況のなかで両者は策略を巡らせ、ようやく翌年に和議が整いますが、家康を従わせるために、秀吉は自分の妹を無理に離縁させて家康に嫁がせたのでした。
さらに関白職と豊臣姓を獲得した秀吉は、天下人の拠点として大坂に巨大な城を築きます。秀吉配下の諸大名を動員して普請された大坂城は、信長の安土城を上回る規模を誇り、ふんだんに金箔を使った五層の天守が本丸にそびえていました。
秀吉が手にした領域は拡大し、四国の長宗我部氏、九州の島津氏などを下したのち、1590年に関東の北条氏を攻めた時には15万を超える軍勢を率いていたといわれます。
秀吉の限界
全国の富と武力を握った秀吉の次の課題は、アジア諸国との外交でした。なかでも中国大陸の明と通交するためには、「日本国王」という名義を獲得しなければなりませんでしたがうまく行かず、秀吉は大軍を率いて朝鮮へ出兵します。1596年には明・朝鮮との和議により「日本国王」に任じられますが、すぐに和議は崩れ、朝鮮に再出兵することが決まりました。しかし、病の悪化した秀吉は1598年、まだ6歳の息子秀頼を盛り立てるよう家康らに頼みながら、62歳で世を去りました。
持ち前の器量で出世した秀吉は、書状にもオーバーな表現が多く、かなりユニークな人物でした。しかし、そんな秀吉をしても「鳴かせてみせよう」とはいかなかったのが親族の問題でした。家族や親類は短命の人物ばかりで、次世代への継承を難しくさせます。とくに朝鮮出兵での無理が祟り、秀吉という偉大な創業者が消えた穴を埋めきれなかったのです。
大河ドラマ「どうする家康」でムロツヨシさん演じる秀吉は、欲望に忠実なキャラクターとして描かれます。個性的で厄介な天下人が、家康にどんな試練を与えていくのでしょうか。
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黒嶋敏(くろしま・さとる)
東京都生まれ。青山学院大学大学院文学研究科史学専攻中退。
博士(歴史学)。現在、東京大学史料編纂所准教授。中世日本の地域や海の世界から見た政治史を研究している。著書に、『中世の権力と列島』『海の武士団 水軍と海賊のあいだ』『天下統一 秀吉から家康へ』『秀吉の武威、信長の武威 天下人はいかに服属を迫るのか』などがある。
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